灘区在住日記

街をぶらぶらしながら神戸(特に灘区)の歴史を勉強中。

灘区の気になる場所を巡る「灘ブラ3時間コース」

今日は14時ごろから灘区の気になる場所を巡ろうと思っていましたが、急にA氏も同行すると言い出し、結局16時にJR六甲道駅を出発しました。

 

 

まずは灘区にある水車をもとめて新在家南町へ。

 

 

以前、江戸時代には水車新田にたくさんの水車があったと知って行ってみましたが、予想通り何もなく…、そこは住宅街で、近くを流れている川はこんな感じ。

 

 

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私のイメージとは全く違ってました。

 

 

でも、お隣の東灘区にはそのレプリカがありました。

 

 

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水車を見ることができて、それはそれでうれしかったんですけど、『どうして灘区にあないんだろう???』っていう気持ちがあったんです。

 

 

対抗意識ってやつでしょうか???

 

 

でも、他の方のブログで灘区にも水車らしきものがあると知り、行ってみました。

 

 

「新在家南公園」だと思い込んでいたら、「新在家西公園」でした…。30分近く間違った公園を探していました…アホだな私。

 

 

諦めて次の目的地に行く途中に見つけたのが、こちらの「新在家西公園」。

 

 

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小さな公園ですが、よく見るとそこには…、水車が…。

 

 

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これって水車ですよね。でも、どこにも「水車」とは書かれていないんです。

 

 

この周辺は酒造メーカーが多いし、昔々は水車で精米してたから、そのレプリカとしてこの公園にあるのか???

 

 

ここに水車がある理由を是非知りたいと思ったけど、何も分からないまま次へ。

 

 

次なる目的地は、神功皇后伝説のある「船寺神社」。

 

 

阪神大石駅の近くにありました。

 

 

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神社の入り口には由来について神功皇后伝説が書かれていました。

 

 

A氏は阪神淡路大震災のとき、この隣にある西灘公園で避難生活をしたそうです。船寺神社のことも良く覚えていました。

 

 

その後、グッと北に上って「プリンセスソース」へ。

 

 

最近読んだこの小説。

 

 

 

 

長田区の話ですが、我が灘区にも地ソースがあると知り、「プリンセスソース(平山食品)」へ。

 

 

阪急王子公園駅の近く、阪急の高架下にありました。

 

 

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私が週に何度も通っているお店のマスターもこちらのソースを使っていると知って、感動…。

 

 

この勢いで「今日はお好み焼きを食べよう!」と言っていましたが、マスターのお店の定休日でした…。

 

 

そこで、以前から気になっていた「ロジック」さんへ。

 

 

 六甲山の老舗茶屋「登六庵」の元店主が水道筋商店街で再出発させたお店だそうです。名物のカレーを食べてきました。

 

 

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カレーはスパーシーで辛目です。とても美味しかったです。 

 

 

6/7からは試験的におばあさんの作っていたカレーが3週間限定で出されるそうで、是非食べに行きたいと思います。

 

 

ところで、こちらのお店にあったこの本。パラパラ見ただけですが面白そう…。

 

 

 

 

ちょっと読んでみたいと思います。

 

 

終わり。

 

 

 

 

律令国家の動揺

「灘の歴史」を読んで街歩きをしています。

 

 

 

 

第一章原始・古代の「律令国家の動揺」。

 

 

平安時代の「伊勢物語」八十七段は、この時代の灘地方を描いている。「むかし、おとこ、津の国、菟原の小売り、蘆屋の里にしるよしして、いきて住みけり」で始まる。

 

 

この物語では、布引と芦屋の間、すなわち現在の灘・東灘区のあたりに貴族の別荘があった。平安時代には、京都の貴族が灘地域に在住する場合があったのだろうと書かれています。

 

 

さてさて、平安中期になると律令制度が動揺し、中央政府の弱体化が著名に顕著になった。その結果、奈良時代の墾田永年私財法を盾に、公家や神社、地方豪族が荘園(私有地)を手に入れ、周辺を開発した。

 

 

また、律令制の動揺とともに地方の治安が悪化し、地方の土地所有者が武装して、武士が出現した。武士は集団化し、やがて武士団が拡大していった。

 

 

は~、なるほど、歴史ってつながってるなって感じますね…。今更ですが。

 

 

灘地域の荘園として記録に残っているのは、都賀荘と得位時枝荘、天下高羽園。

 

 

鎌倉初期の資料「春日祭雑事定文」には、春日神社の行事に関わるまぐさ(馬のえさ)を負担するものとして都賀荘の名が記されている。このころの都賀荘は藤原摂関家の所領か、春日社へ寄進された荘園であったと考えられると。

 

 

おーっと、「春日神社」とは通勤のとき毎日見ているここか!!!

 

 

こちらが神前町にある「春日神社」。

 

 

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こちらは「神前の大クス」。推定樹齢は約500年だそうです。すごいでしょ。

 

 

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と一瞬思いましたが、ここに書かれている春日神社は奈良にある「春日大社」のことですね…、残念。(ってなにが???)

 

 

ちなみに、得位時枝荘は、この地の有力者であった時枝氏、室町時代以降は北野天満宮が、天下高羽園は平安時代以前に石清水八幡宮が領有していたと伝えられているそうです。

 

 

って、奈良や大阪、京都にある神社が灘区に荘園(私有地)を持っていたってことですよね…。この時代の神社の権力を感じますね…。

 

 

こうやって歴史をみていくと、(当たり前ですが)歴史ってつながっていると感じます。学生の時、ちゃんと勉強していたら、もっと何かを感じることができるんだろうな…と思いますが、今更後悔しても遅いので、ボチボチ勉強したいと思います。

 

 

ちなみに、ここで「原始・古代」は終了です。この次は「中世」。

 

 

あ~あ、もっと不得意な歴史だな…。でも、頑張りま~す。

 

 

六甲山と山岳信仰

「灘の歴史」を読んで街歩きをしています。

 

 

 

 

第一章原始・古代の「六甲山と山岳信仰」。

 

 

万葉集」などによると、難波津に出た大和の人々は大阪湾の対岸に見える山や川を日本語の「向こう(対岸)」を意味する「ムコ」と呼と呼んだ。のちに「六甲(ムコ)」の字も当てられ、この表記は「ロッコウ」と読まれるようになったと書かれています。

 

 

六甲山地は古来、修行の場として利用され、六甲山の不思議な力を題材にした神話や伝説には事欠かない。

 

 

奈良時代後期に仏教と政治の癒着が過剰になって平安遷都が行われると、仏教の世俗化を嫌う僧たちも現れた。最澄(伝教大師)や空海(弘法大師)は精神修養を実践するために比叡山(最澄天台宗)や高野山(空海真言宗)など、人里離れた山中に修行の場を開いた。

 

 

そのような仏僧は日本古来の山岳信仰の行者と出合い、行場に仏教寺院を建てた例が多い。

 

 

大化年間に法道仙人が開いた観音霊場に空海が創建した天上寺の摩耶山の縁起や、奈良時代和気清麻呂が開いた観音霊場を平安初期に空海が大龍寺に大成したという再度山の伝説などは、古来の行場に山岳寺院が建立された歴史を反映した言い伝えなのであろう。

 

 

近世、岩上の修行僧を見て天狗と考えた里人が、山内各地に天狗岩、天狗道、天狗塚などの地名をつけた。行者岩、行者山、仙人窟なども、六甲山が行場であったことを物語地名である。

 

 

って、「灘の歴史」を書き写しただけになってしまいましたが、摩耶山、再度山には一度行ってみたかったので、この機会に計画したいと思います。

 

 

長田区を愛する人々に贈る「まぼろしのお好み焼きソース」

関西に来て「粉もん」を食べる機会が増えましたが、ソースにこだわったことはなかったし、考えたこともありませんでした。

 

 

明治時代、安井敬七郎さんが兵庫区に作った「安井舎密工業所(のちの阪神ソース)」が日本でのソースの始まりだそうです。

 

 

 

 

私の「粉もん」のイメージは大阪でしたが、大阪に負けない、いや、大阪より多くのソースメーカーが神戸にあるのも驚きです。

 

 

その中でも長田区は「焼きそばをそば焼きと呼び、お好み焼きにそばを載せればモダン焼き、ご飯と切れ切れにしたそば麺を混ぜればそば飯、すべてが長田発祥である」らしいです。もちろん、ソースへのこだわりも半端ではないでしょう。

 

 

この小説はそんな「ソース」のお話です。

 

 

 

 

ただ、そこは食べの物だけのとどまらず、阪神・淡路大震災からの街の復興、地元の繁栄のため(やくざではなく)任侠と街の人々が協力して、倒産の危機にあるソース工場を再生させるために奮闘する物語でもあります。

 

 

(やくざではなく任侠というところがミソです。)

 

 

 私は数えるほどしか長田区に行ってことがありませんが、この小説を読んでグッと長田区に興味が湧きました。

 

 

今度必ずお好み焼きを食べに行きます!

 

 

この小説を読めば、長田区の人々の地元愛が一層強くなると思います。粉ものを愛する人々だけでなく、特に長田区の皆様にお勧めの小説です。

 

 

 

 

ところで、私が住む灘区にもソースメーカーがあります。

 

 

阪急王子公園駅の近く、高架下にあるのが「プリンセスソース(平山食品)」。神戸でも一番小さい規模で頑張っているソース工場だそうです。

 

 

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私がいつもお世話になっているお店(灘区)のマスターも、こちらのプリンセスソースとニッポンソースを混ぜているとか…。

 

 

地産地消…いいね。

 

 

このマスターが作るお好み焼き、焼きそばの味が、私にとっての「ソース味」だと思います。まっ、週に何度も通ってるんでね…(もっと頑張って自炊しろよって感じですけど)。

 

 

この小説を読むまで「ソース」には何のこだわりもなかったけど、地元灘区のソース工場で作られたソースを使ったお好み焼き・焼きそばをいつも食べていたなんて…感動(って何が???)です。

 

 

終わり。

 

 

古代の瀬戸内海航路

「灘の歴史」を読んで街歩きをしています。

 

 

 

 

第一章原始・古代の「古代の瀬戸内海航路」。

 

 

大和政権は中国や朝鮮半島と盛んに王流・交易をおこなっており、瀬戸内海航路は人や物資を運ぶ主要なルートであったと書かれています。

 

 

神話的な物語によると、難波津の一つ西の停泊地として「武庫水門(むこのみなと)」が利用されていました。それが七世紀後半には「敏馬浦」、八世紀半ば以降は「大和田泊(のちの兵庫津)」が利用されるようになりました。

 

 

造船・航海技術が変化して停泊地が徐々に西に移っていったのであろうと。

 

 

なるほどな…。

 

 

さて、この敏馬浦、現在の敏馬神社の社殿は高台にあって、東の入り江が敏馬浦、西の入り江が脇浜だったそうです。

 

 

こちらが「敏馬神社」。一番近い駅は阪神岩屋駅ですが、阪神バスだと「敏馬神社前」というバス停があるので、こちらが一番簡単に行ける方法だと思います。

 

 

この神社は「延喜式神名帳にも記載されているそうです。

 

 

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今はすぐ前が国道になっています。

 

 

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ここから見る景色はとてもきれいだったんでしょうね…。

 

 

万葉集には敏馬の歌がいくつか見られ、柿本人麻呂や(大宰府の長官)大伴旅人などの歌もあり、敏馬神社には歌碑がいくつかありました。

 

 

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万葉集は私にとって難易度が高いので(⁉)、いつか読んでみたいと思いますが、まだまだ先かな…。

 

 

また、瀬戸内海沿岸地域には神功皇后伝説が多く、灘地域でも敏馬神社や船寺神社、六甲山の石宝殿に皇后にまつわる伝説が伝わっているそうです。

 

 

阪神大石駅近くにある「船寺神社」がこちら。

 

 

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神社の入り口には神社の由来について神功皇后伝説が書かれていました。

 

 

しかし、「神功皇后って誰…」という疑問が…。こちらはボチボチ調べていきたいと思います。

 

 

そして、いつか六甲山の石宝殿も訪ねてみたいと思います。ちょっと遠いですけどね…。

 

 

班田収授法と条里制

「灘の歴史」を読んで街歩きをしています。

 

 

 

 

第一章原始・古代の「班田収授法と条里制」。

 

 

律令国家は、公地公民の原則により班田収授を実施した。これは、身分や性別の応じて政府から口分田が支給される制度であ、農民は土地が与えれる一方で、租・庸・調などの税が徴収されたと書かれています。

 

 

あ…、なんとなく、ボヤッとですが習った気がしますね…。

 

 

田を均等に分割するために、条里制と呼ばれる土地区画が実施された。これは地割の一方を「条」、他方を「里」と数えたことから「条里制」という名が付いたそうです。

 

 

記田町には「四ノ坪、五ノ坪」という小字があったらしいです。また、石屋川と高羽川の間には条里制に沿ったと見られる道路や水路跡が残っているとか…。

 

 

今度、探しに行きたいと思います!

 

 

律令国家の地方制度

「灘の歴史」を読んで街歩きをしています。

 

 

 

 

第一章原始・古代の「律令国家の地方制度」。

 

 

六世紀末に中国が統一を果たすと、それに刺激を受けて日本国内でも中央政権的な国家をつくろうという機運が高まった。645年、中大兄皇子中臣鎌足は公的な法による律令国家を目指した。この改革を「大化の改新」と呼ぶと書かれています。

 

 

あ…、この辺りから苦手です。人や出来事、年号を覚えなければ!と思うトラウマからでしょうか…。この後1000年ぐらいは(私の中の)歴史の空白地帯です。

 

 

でも、せっかくの機会ですので、頑張って勉強したいと思います。

 

 

701年の大宝律令によって完成した律令国家は、公地公民の原則に基づいて班田収授法を実施。地方は国・郡・里に分けられ、現在の夙川から生田川までの六甲山南麓一体は「摂津国莵原郡」とされたと書かれています。

 

 

その郡役所があった場所がこちら。

 

 

阪急御影駅とJR住吉駅の間、山手幹線沿いにあります。

 

 

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 葉っぱに隠れてるし…。「ぐんけ」かと思ったら「ぐんげ」でした。

 

 

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ここに行く途中、「室ノ内」という地名を見た気がしますが、そこも同じようです。また、その近くにある大蔵という字名も名残だそうです。

 

 

名残って…、こんな昔々の名残ってすごいな。

 

 

暗記をするのは苦手ですが、こういう歴史は面白いなと思います。頑張って灘の歴史を勉強していきたいと思います!